8月に入り例年以上に酷暑の毎日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。こんにちは、真結の旅を企画しております浅田です。このたび、真結の旅・秋号が完成しました。今号のテーマは「天高く旅誘う秋」。季節の行事や旬の味覚、伝統工芸や作家ゆかりの地を訪ねる他、旅先での地元の方とのふれあいなど、真結ならではの旅が皆様をお待ちしております。秋の旅で特におすすめしたいのが「みすゞの課外授業」。童謡詩人・金子みすゞのゆかりの地を巡る旅です。今回は、私が現地を取材した際の紀行文をお伝えいたします。(パンフレットより抜粋につき常体文にて失礼します)
金子みすゞのふるさと・仙崎を訪ねて
5月下旬の初夏の陽気の中、童謡詩人・金子みすゞに会う為、山口県長門市仙崎を訪ねた。JR山陰本線・長門市駅から1日に6往復のみ運行される仙崎線に乗り換え、終点・仙崎駅に到着したのは正午過ぎ。駅前に降り立ち正面を見ると、ひたすらまっすぐ延びた一本の通りが目に入る。仙崎駅から北へ約1km続く通称“みすゞ通り”は、真昼なのに人影はほとんどなく、潮の香りが混ざった初夏の優しい風を除けば、まるで時間が止まっているかのような錯覚に陥ってしまう。なぜこうした日本海に面した小さな漁村から、金子みすゞのような詩人が彗星のように現れたのか、益々興味が沸いてきた。
漁師町・仙崎と青海島
金子みすゞは、明治36年(1903年)、長門市仙崎(当時は大津郡仙崎村)に生まれた。仙崎は向かいの青海島との間に堆積した砂(さ)嘴(し)によって成り立った町であり、天然の良港と豊かな漁場に恵まれた古くからの漁師町である。また江戸から明治期にかけては、仙崎湾に入ってきた鯨を「網取り式」という勇壮な漁法で捕らえることで日本有数の捕鯨基地として栄え、「鯨一頭捕れば、七浦が賑わう」といわれるほど豊かさを誇った町でもあった。
「みすゞのルーツを知るには青海島の鯨墓を是非訪ねてみてください。」金子みすゞ記念館の主任・企画員であり、金子みすゞ顕彰会事務局長の草場睦弘さんに教えられ、青海島の通(かよい)集落を訪ねてみた。みすゞの父は鯨漁が特に盛んなこの通集落の出身で、みすゞは幼い頃から神社の夏祭りなど、折に触れて父の実家を訪れ、「鯨捕り」や「鯨の回向(えこう)」の話をよく聞いたという。またこの通集落には鯨の霊を供養する為の鯨墓が建立されており、鯨墓には母鯨と共に捕らえられた鯨の胎児が約70頭埋葬されている。(因みに、鯨墓は国の史跡に、また本寺の向岸寺には鯨の位牌と過去帳が残されており、県の有形民俗文化財にも指定されている)
「鯨墓は全国各地にありますが、鯨に戒名を付けて過去帳に残し、340年たった今でも法要を続けているのは全国的にも大変珍しい風習です。人の命も、鯨や魚の命も、皆同じ命。みすゞさんは幼いころからそう感じて育ち、それがあらゆるものへの優しさにつながったのではないでしょうか。ここは、みすゞさんの詩の原点の地だったと思います。」と語る草場さん。みすゞの代表作の一つ「大漁」は、そんなみすゞの優しさを表しているという。
<大漁>
朝焼け小焼だ、 大漁だ
大羽(おおば)鰮(いわし)の 大漁だ。
浜は祭りの ようだけど、
海のなかでは 何万の、
鰮(いわし)のとむらい するだろう。
<鯨法会>
鯨法会(ほうえ)は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁夫が羽織着て、
浜のお寺へいそぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いています。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
よみがえりの詩人
金子みすゞの詩は東日本大震災時、テレビのCMで繰り返し放映され人気が再燃したという。しかしながら、それだけが、およそ90年前に作られた詩が現代の人々に受け入れられた理由ではないだろう。人と人の関係が希薄となり、幸せの尺度をお金で計るこの時代において、陽の当たらない部分であったり弱者に寄り添うみすゞの詩に勇気づけられる人は数多い。みんな誰でも弱い部分を持っている。強がって隠しているだけ。弱い自分をさらけ出すのは怖くないよと、みすゞはそっと優しく教えてくれているようだ。
みすゞ通りには、みすゞの実家跡(現・金子みすゞ記念館)や菩提寺の他、両側に民家や店が並び、彼女が幼少期を過ごした町並みの面影が今もそこかしこに残っている。また各民家の軒下には、手作りのみすゞの詩札が掲げられていて、詩を楽しみながら散策もできる。
町を通り抜ける優しい風は、みすゞの優しさそのものだった。